掃除

私が掃除に目覚めたのは、数年前に一人暮らしを始めた時だった。その時、家に埃が溜まるのは人の活動とは関係ないことを知った。家では寝るだけでも、数日経てば家のあちこちに知らず知らずのうちに埃が積もっていく。私がいない間にも、家の周りには風が吹き、開いた窓の隙間から埃が入ってくるのだ。そして、暖かい陽射しの下、ゆっくりと沈んでいく。窓枠の上にも、机の上にも、そして、カタカタと音ばかりで暖かくならない古いヒーターの上にも…🌞

だから、掃除を始めたんだ🧹

やってみた人は知っていると思うけど、掃除は時間と努力をかけた分だけ正直に返してくれる、世の中で一番正直な作業だ。最初は床に見える埃だけを取り除いた。それから、棚の上のものの埃を払うようになり、バスルームに目を向けて洗面台を磨くようになった。だんだん見えないところや手の届かないところまで気にしだして、私はなんとなく主客転倒していることを感じた。

実際、こんな風に掃除に夢中になっていると満足のいく結果は得られない。掃除に使える時間は限られていて、人には隙が多いからだ。家全体が汚れているなら別だけど、掃除という趣味である程度きれいに保っているなら、汚れた場所はコントラスト効果で目立ってしまう。ベッドの周りがきれいだと、棚の埃が目につくような感じだ。洗面台を磨くのに力を使い果たしたのに、ガスレンジ周りの油汚れを見てしまった時のヒヤッと感、わかりますか?そんな理由で、一人暮らしの頃は比較的時間があった週末にいつも雑巾を持って床を這い回ったり、壁の埃を払ったりして、修行のように時間を過ごしたんです。

軍隊時代、部隊に師団長の訪問計画があると、数十人の兵士がそれぞれ建物の階段を二つずつ担当し、二時間ずつ磨いた。(足で踏むその階段です)私たちは担当した階段の水平/垂直面の埃を取り除き、その上に腰掛けて布で階段の金属部分を、硯に墨をするように、果てしなく磨きました。墨をするように磨いたなら、墨汁10リットルは軽く作れたかもしれません。その時、私は一緒に磨いていた先輩に自分の階段を見てもらって、もうこれ以上きれいにはならない状態じゃないかと尋ねました。時間の無駄のように思えて、このくらいで止めたかったからです。するとその先輩は低い声で私に言いました。

それを判断できるのは時間だけだよ⏳

それが愚かな質問だったことを今は知っています。常にもっときれいにする余地はありますが、時間がないので止めざるを得ないのが掃除です。掃除には終わりがないのです。

しかし、一人暮らしの期間中、掃除に支配される生活を送るようになり、私の生活は疲弊していきました。家はきれいになったけど、指には湿疹ができ、体はいつも疲れていました。私は幸せではありませんでした。
そんなある日、突然この状況から抜け出さなければと思いました。遠くから一人暮らしを始めたのは掃除をするためではなかったからです。そこで、家の中の汚れた場所を新しい視点で見始めました。バスルームのドアはいつも閉めておき、テレビの飾り棚は後ろが見えないように壁にくっつけました。(ロシア形式主義者の『異化』とは違うかもしれません)掃除が行き届いていない場所は東洋画の余白であり、埃は人生の一部だと考えました。人間は一握りの埃に戻ると言います。土だったでしょうか?ともかく、掃除を遠ざけるようになってから、生活は意外と悪くなかったんです。私は徐々に安定を取り戻し始めました。


でも、最近また掃除を始めて、心地よくもあり不安でもあるという話🧽

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