
周りに知っている方が定年退職をされると聞いた。長年勤めた会社にもう行かなくてもいいというのはどんな気持ちだろう?🍷お酒を飲んで遅く寝ても朝に無理して起きる必要もなく、何度も繰り返される結論のない会議に出席することもなく、エレベーターで会いたくない人に無理に会うことも、着たくないスーツを無理に着ることも、もうないのだろう。
申し訳ありませんが、その方はもう我が社に必要ありません。
という声を肩越しに聞く気分だろうか?
サンフランシスコから帰国する前に – もちろん大いに違うだろうけど – そんな感じだった。もう学校でも、サンフランシスコでも自分は必要ないという宣告を丁重に受けたような気がした。そんな憂鬱な気分で荷物を片付けて、人々に別れを告げ、ガスを止めて、冷蔵庫を空にした。そして、最後の日に家の前のバスに乗ってCalifornia Streetの終わり、Lands Endに行った。
午後遅くに到着すると、人もほとんどいなくて風だけが強く吹くその場所で、☕️コーヒーを前にしてぼんやりと一時間ほど海を眺めていた。そして心が軽くなって
さあ行こう!ソウルへ。..
とサッと立ち上がり、スマッシングパンプキンズの『The end is the beginning is the end』を聴きながら再び家に帰るバスに乗った。
人生というのは出会いと別れ、始まりと終わり、期待と失望の連続であり、どれもほとんどが互いに絡み合って継続的に繰り返されるものだ。📚読んでいた本を読み終えると次の本を選ぶように、中学校を卒業すれば高校に進むように、進行中のプロジェクトが終了すれば次のプロジェクトが待っているのだ。サンフランシスコでの最後の日、海を見ながら再び気持ちが軽くなれたのも、そこからの最後はソウルでの始まりと繋がっているからそのまま歩き続ければいいと考えたからだった。
しかし、定年退職となると少しは違うのではないだろうか?同じようにLands Endに立って太平洋を眺めたとしても『退屈だけど、あの太平洋の向こうで再び始まるんだから。』という考えは浮かばないかもしれない。代わりにすべての道が途切れ、もうこれ以上歩き続けられないという事実に悲痛な気持ちにならないだろうか?もしかすると、無限に繰り返されるような非自主的な日常から解放されたことに幸せを感じるかもしれない。
大半の人が祝っているのを見ると後者に近いような気がするけれど、やはり私にはよくわからない。
