
退屈
最近の私の状態を一言で表すとこんな感じ。だけど、これまでの人生で「退屈」という言葉の意味を知らずに生きてきた私だった。人と会う時も、一人で過ごす時も、いつも何かやることがたくさんあった。それが生産的だったり意味のあることだったかと問われると悩むかもしれないけど、少なくとも時間を物理的に埋めるには十分だった。でも、何かをしているからといって退屈しないわけではない。そして、それが分かったのは比較的最近のことだ。✨
「退屈」という言葉は辞書的には「時間が長くかかったり同じ状態が続いてつまらなく飽きる場合」を示す。品詞は形容詞なので主体的に作り出すものではなく、状況によってどうしようもなく置かれる状態を描写する。
最近、人類が感じている退屈の根源はおそらくコロナによるパンデミックの状況だろう。もう2年目になったから同じ状態が続いて飽きる場合にぴったり当てはまる。どんなに楽しいことを見つけようとしても、社会全体の基底的な雰囲気が憂鬱なので、その気分から抜け出すのは簡単ではない。そんな理由で私も過去と大きく変わらないパターンで何かをしていてもいつも気分が落ち込んでいた。集中していても退屈だった。手を動かしていても退屈だった。頭の中で何かを考えていても退屈だった。Foster the Peopleの『Houdini』を聴いていてもとても退屈だった。🎧
ある意味、退屈は死の直前の状態かもしれない。退屈と死を結びつける適当な言葉が存在しないという話だ。退屈と死。虚しく、くだらなく、意味もなく空虚な状態は消滅につながるのが自然だ。😔
イ・スンファンとソヌ・ジョンアの『어쩜』という曲を聴いていると、『退屈』が形象化されて頭の中にいっぱいになる。この曲の主人公たちは後悔でいっぱいだ。実際には後悔というより無関心な相手にイライラして寂しいのだ。それで『むなしく若さを君というやつに全部使ってしまったのか』と言う。退屈だと言う。この曲を聴きながら『あ、パンデミックの前にも退屈があったな』とひざを打った。確かに私もこんな気持ちを感じたことがあったから。程度は違えど確かに似たように無気力で、すべてがくだらなかった。でも、時間が経つにつれてまた状況は変わり、退屈は消えた。その後もいろんな状況の中で何度かまた退屈を感じてはそれを忘れたりしていた。重要なのは退屈にはすべて終わりがあったこと、そして退屈そのものも一緒に忘れられるということだった。🌸
この状況がいつ終わるのか私もよく分からない。もしかしたら退屈を倍化させる状況が重なるかもしれないし、そのまま永遠に続くかもしれない。こんな風に自ら抜け出せない絶対的な退屈を克服する方法は誰が何と言おうと一つだけ。耐えること。絶対的な退屈を忘れられるように現在に忠実でありながら、じっとして耐え抜くこと。💪
いずれにせよ、パンデミックが終わろうが、私が死のうが、という気持ちでみんながうまく耐え抜ければいいなと思う。(ちょっと極端かな…)
